今後のキャリアを考えると、
どうしても20代で海外を経験したい。
大手企業を2年目で辞め、ベトナムへ。
ベトナムでは入社1年で管理職に登用、
その経験を活かし、日本で次のステップへ
平松 唯奈 Hiramatsu Yuina
三井・ケマーズ フロロプロダクツ株式会社
ケミカルス事業部門 環境冷媒営業部
<プロフィール>
静岡県浅羽町(現袋井市)出身。2016年3月に名古屋大学経済学部を卒業後、日系大手の石油元売り企業に入社。セールスや本社でのカスタマーサポートなどを担当した。2018年3月、ベトナムの工業用ガスメーカーに現地採用で転職。工業用ガスやガス供給設備のセールス職に従事して、2019年3月にアシスタントマネージャーに昇格。2019年8月に日本に帰国し、三井・ケマーズ フロロプロダクツに入社。冷媒ガスのセールスを担当している。
地方の小さい街で生まれ育った。
小学校の時の体験が、私を海外に導いた
海外を意識したきっかけは、小学校の3年生から4年生にかけて、ユネスコの活動に参加したことです。世界の子供達の現状や環境問題をそこで学習しました。自分の周りとは全然違う社会があると感じて、「海外の問題に何らかの貢献ができたらな」と漠然に意識するようになったのです。中学・高校とその思いは消えず、選んだ進学先は名古屋大学の経済学部。国際開発を学べる専攻科が大学院に設置されていたからです。
海外の中でも、興味を持っていた地域は東南アジア。そのきっかけは小学校のある授業にありました。私が生まれ育った静岡県浅羽町(現袋井市)は、ベトナム独立運動の指導者を支援した、「浅羽佐喜太郎」という偉人の出身地です。小学校の授業でその業績を学ぶ機会があり、「この小さな街に、外国のためにこんなに尽くした人がいるんだ。私もいつかは世界で活躍する人になりたい!」と胸を打たれたのを今でも覚えています。
大学3年次から、東南アジアへの短期留学に行き始めました。現地で学生達と交流するプログラムに応募して、ベトナム、インドネシア、マレーシア、シンガポール、中国、の5カ国に渡航しました。現地では、一緒に授業を受けて学んだ内容をプレゼンしたり、日系企業を訪問して職場や工場を見せてもらったり、社会人の皆さんに労働や経済について質問したりと充実した日々を送っていました。ただ、あくまで期間は短かったので、もう少し長く現地に入りたいと思って、4年次にJETRO主催のインターンシップに応募。当時は英語がほとんど話せませんでしたが、何とか意欲だけで面接を通過して(笑)、ベトナムの国営企業で半年間働けることになったのです。
ベトナムでの半年間のインターン。
意思疎通につまずきながらも、
何とか仕事をこなす日々
インターン先を選ぶ際には「働くならベトナムしかない」と明確に意識していました。短期留学で6カ国を回って、ベトナムの人なつっこい気質が自分には合っていて、気候や風土的にも体調を崩しにくいと感じたからです。派遣企業は、国営企業の水産加工会社の営業部でした。日本企業とも取引をしている会社だったので、ベトナム語の資料を英訳してもらって日本語に直したり、日本人のお客様がいらっしゃったときに工場を案内したり、日系のレストランへ新規開拓の営業をしたりといった仕事をこなしていました。
学生なりに何とか仕事を進めることはできたものの、正直、意思疎通は大変でした。営業部のスタッフは10人くらいでしたが、英語を不自由なく話せるのは1人しかいません。ベトナム語はほとんど話すことができませんし、現地の文化もよく理解していなかったので、たった一つのことを伝えるためにも、ものすごく時間が掛かりました。生活面でも、住んでいたアパートの部屋にアリが発生したとき、管理人さんと意思疎通ができず、パニックになったこともあります(笑)。
1社目の勤務先は大手石油元売り企業。
海外には行けなかったが、
仕事の基本的なスタイルを習得した
就職活動では、もともとユネスコの活動を通じて海外に興味を持っていたので、「公的機関で国際開発をやりたい」と思っていました。ただ、当時はスキル的にその選択は難しいと感じていました。公的機関の本部で何かの戦略を立てることもできないし、現地に飛んでも指導できることがない。その足りないスキルを埋めるために、まずは企業で働こうと決めたのです。
正直、就職活動は苦戦しましたね。。。最初はプラントエンジニアリング系の企業を受けました。海外で色々な国の人と協力して大きな建造物をつくることが、とても楽しそうに感じていたのですが、全部ダメで。。。日系大手の石油の元売り企業から、何とか内定をいただいて、その会社で働くことを決めました。
「潤滑油」という化学品を扱う部署に配属されて、最初はひたすら現場を回りました。製油所、ガソリンスタンド、製品を使ってくれるお客様の工場にも行きました。その後セールスの担当になり、工業団地を調べて企業に新規営業を掛けて怒られたり(笑)。ただ、がむしゃらに行動していると、少しずつ成果につながり始めて楽しかったですね。この「分からないなりに体で動いて覚えていくスタイル」は、この後のベトナムの仕事でもかなり役に立ちました。
この石油元売り企業には、2年弱の期間在籍して退職しました。仕事自体は充実していたのですが、すぐには海外に行くのが難しいことと、最後の1年間は代理店営業が中心になり、お客様と直で接することができなくなったことがその理由です。
社会人2年目の終わりに現地採用でベトナムへ。ハノイの工業用ガス会社で新規開拓営業を担当
自由に動ける20代のうちに、一度は海外で働きたいと思っていたので、まずは日系企業の駐在や海外営業の仕事を探しました。ただし、職歴がほとんど無いので、良い案件を紹介してもらえません。そこで現地採用に切り替えました。現地採用は駐在と比べると待遇は恵まれているとは言えませんが、結果を出せば給料は上がっていきますし、このタイミングで渡航することを優先したのです。複数の人材紹介会社に相談すると、意外にもベトナムで幾つかの職場の募集がありました。その中で、最も待遇が良かっただけでなく、私に大きな期待を寄せてくれた会社を選びました。その会社は、渡航費をいただいて面接のために現地に招いてくれたほど、歓迎してくれたのです。
その転職先は、日系資本が入っているガス供給会社で、ハノイ支社での勤務となりました。オフィスに40人、工場に30人が勤務する中堅規模の会社で、日本人は駐在の支店長と私の2人だけです。1996年に創立された会社なのですが、ハノイ支社には日本人が少ないこともあり、入社直後から多くの仕事を任されました。私の担当はセールスで、主に日系の工場に対して、工業用ガスやその供給設備、タンクや配管を販売・設置する仕事を一任されました。メインは新規開拓で、工場団地に営業を掛けたり、日系企業の進出のニュースがあればそこに売り込みに行ったり。ガスのニーズをヒアリングして、それに合わせて設備やメンテナンスを勧める仕事でした。
ベトナム人スタッフをまとめ大型案件を受注。そして、アシスタントマネージャーに昇進
思い出に残っているのは、日系部品メーカーさんの案件です。その会社の新しい工場の建設が決まっていたのですが、競合他社との契約が決まりかけていたところから、自社への契約にこぎつけました。当時、私はまだ入社して2ヶ月でしたので、お客様の要望に応えられずに悔しい思いをしながらも、ベトナム人の営業スタッフや技術スタッフに頭を下げて協力をあおいで、何とか受注につながりました。何度もお客様のもとに通い詰めて、少しずつ信頼を得ることができたのも大きかったと思います。お客様に「平松さんは一生懸命にやってくれているから」と言われて、その後は別の工場の増設時に受注をいただいたり、現地スタッフの教育までも任せられるようになりました。他の仕事でも成果を挙げることができて、アシスタントマネージャーに昇進。支店長以外では唯一の日本人スタッフとして数名の部下を持ち、大きなプロジェクトを責任者の立場で関わることも増えていきました。就職活動時の「海外の人たちと協力しながら、大きな仕事をしたい」という希望を叶えられたので、すごく嬉しかったですね。
今思えば、現地で成果を出すためには、ベトナム人スタッフからの信頼を得ることが不可欠でした。新人時代に真っ先に心掛けたのは、誰よりも朝早く出社すること。始業時間は8時で全員がギリギリに出社してくるのですが、私は7時20分にはオフィスにいました。一生懸命に仕事をする姿を見せないと、誰もついて来てくれないと思っていたからです。
そして、お客様先で日本語で仕入れた情報は、オープンにベトナム人メンバーに共有していました。「お客さんの日本人の社長はこういうことを言っていたので、次はこうしよう」とアドバイスもすることで、彼らの疎外感が無くなってチームに一体感が生まれます。この仕事はセールスだけでは完結しません。技術、購買、調達など、あらゆるスタッフでプロジェクトを進めることが必要です。日本人の私が、多くのベトナム人をまとめるのは苦労も多かったですが、大切なことをたくさん学ぶことができましたね。
次の転職先は東京へ。
業界の変革のタイミングに立ち会いたい
ベトナムの現地企業に入社して1年が経ったときのこと。現地採用から駐在へのポジション変更を支店長と話していたのですが、その支店長が異動になりすぐには実現が難しくなりました。私が駐在員というポジションを得たかったのは、待遇のためだけではありません。日本とベトナムの橋渡しになることで、新しい自分の可能性が開けると信じていました。その機会が先送りになったことで、今の環境に居続けるのではなく、次のキャリアを自ら切り拓こうと決意したのです。
転職先はベトナム、シンガポール、東京の3つの拠点で探しました。転職活動では、化学系の素材を扱う経験に加えて、異文化の地でスタッフをまとめてプロジェクトを形にしてきたことが評価いただいたと思います。また、社会人4年目でのマネジメント経験も、同世代では少ないのでプラスに捉えていただいたこともありました。色々な会社を受ける中でとても迷ったのですが、次の職場に選んだのは、東京の化学品専業メーカー「三井・ケマーズ フロロプロダクツ」。グローバルに事業を展開している米国デュポンから分社化したケマーズ社と、日本の三井化学が折半出資する合弁会社です。引き続き海外に勤務することも考えたのですが、勤務地よりも仕事でのチャンスを優先しました。
現職での担当は、冷媒ガスのセールスです。その名の通り、モノを冷やすためのガスで、エアコンや冷蔵庫などに使われています。環境規制が年々厳しくなっていて、現状使われている一部のガスが利用不可になるタイミング。「今、業界が一気に変わっていく時期だからこそ、このフィールドで挑戦してみよう!」と現在の会社への転職を決めたのです。
まだ入社して3ヶ月しか経っていませんが、とても自由にやらせてもらっています。環境に優しいガスへの転換をお客様に提案する中、会社が提案する環境対応の基本方針をベースにアプローチの手法や提案内容を自分で考えて実行できるのはおもしろいですね。新規開拓が私のミッションですので、今とにかく意識しているのは一つでも多くの打席に立つこと。多くの企業にアプローチする中で、ベトナムでの部品メーカーさんのように、まず1社、自分のことを心の底から信頼してくれるお客様をつくる。そして、いつかはマネージャーのポジションに挑戦してみたいですね。
日系企業の進出の歴史が浅いベトナムだからこそ、機会に恵まれ、多くのことを学ぶことができた
ベトナムで学んだことは、今の仕事でもかなり役に立っています。その一つは、職場やお客様先でのコミュニケーションです。日本人の支店長とベトナム人のメンバーの間に立ち、双方と意思疎通を図っていました。そこで培った「相手の考えていることを想像するスキル」や「それぞれの利害関係を調整するスキル」は大きいですね。現職では、上司やお客様とプロジェクトをスムーズに進めることができています。異文化間の調整で鍛えられたので、タフな調整が生じた際にも驚かなくなりました。
もう一つは、物怖じ無く自分を出していけること。自らのバックグラウンドが通用しない環境で、あらゆる現場に自らの足で入って、何かを成しえたことは大きな自信になっています。「分からなくても動けば何とかなる」という私のスタイルは、新卒で勤めた会社で培われたものですが、海外勤務を通じてさらに磨きがかかったと感じますね。
中国やタイなどとは異なり、ベトナムへの日系企業進出の歴史は浅いので、まだまだ日本人スタッフの希少性は高い。だから、社会人としての経験がほとんど無かった私でも、大きな仕事を任された側面はあったと思います。他の会社を見てみると、現地採用の日本人に対する扱いは未成熟な部分もあるようにも感じますが、それは希少性の裏返し。だからこそチャンスがあります。
結果、ベトナムでの1年8ヶ月は、私自身を大きく成長させてくれました。大学3年生のとき、最初に短期留学したインドネシアでは英語が全く話せず、他の日本人学生に「どうしてそんな程度の英語力で海外に来たの?」と厳しい言葉を掛けられたことがありました。すごく悔しくて、そこから何にでもがむしゃらに取り組むようになって、今があるように思います。この年で現地のマネージャー職に就けたことで、多くのことを学べたのは幸運でした。
海外に行くのであれば、目的を明確にするのがまずは大切だと思います。自分を成長させに行くのか、現地の生活を楽しむために行くのか。私の場合は、仕事で結果を出したかったから、治安が良くて生活もしやすいベトナムを選択したのです。自分の目で情報収集を行い、目的を達成するためのリスクとリターンを冷静に判断するのが大切だと思います。ただ、いくら事前にシミュレーションをしたとしても、渡航した後は何が起こるか分かりません。現地では大変なことも多いですが、真っ直ぐに日常に向き合えば、自分の殻が破れて成長していくのは間違いありません。そう私は感じています。
<インタビュー担当記者より>
平松さんは、大学4年次にベトナムでのインターンシップに応募する際に、ご両親から「半年も行って大学は卒業できるの?」と心配されたそうです。「でも、ここでやるしかなかったんですよ」と平松さん。大手企業を入社2年目に退職して、現地採用でベトナムに渡る際も、「20代で何としても行きたかった」とのことでした。
私がこの2つの出来事から感じたのは、ユネスコの活動や6カ国への短期留学など、過去からの蓄積があるからこそ、「今」というタイミングを大切にできていること。大きな行動を起こす前にエネルギーを貯めて、一気に放出しているように見えました。「勢いだけで海外で転職するのはあまりオススメできません」と平松さんはおっしゃっていました。目の前の日々の仕事に実直に向き合い、情報収集も丁寧に行ったその積み重ねがあったから、若くして道は開けたのでしょう。
●インタビュー・執筆担当:佐藤タカトシ
キャリアや採用に関するWebでの連載多数。2001年4月、リクルートコミュニケーションズ入社。11年間に渡り、大手自動車メーカー、大手素材メーカー、インターネット関連企業、流通・小売企業などの採用コミュニケーションを支援。2012年7月、DeNAに転職。採用チームに所属し、採用ブランディングをメインミッションとして活動。 2015年7月、core wordsを設立。
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