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海外転職の先にある、キャリアと生き方

海外転職の先にある、 キャリアと生き方(1回目) 吉田 達也さん

海外就職体験談 2018-11-06





旅行代理店の営業職を経て、
タイでの拠点を立ち上げ、チームリーダーに。
「業績不振」「退職者続出」の修羅場をくぐり抜け、
帰国後は、経営コンサルタントに。


吉田 達也 Tatsuya Yoshida
日系コンサルティングファーム勤務


<プロフィール>
1988年9月生まれ。法政大学を卒業後、2011年4月、JTBに入社。新橋支店で営業職を勤める。知人の紹介で興味を持ち、リクルートの海外子会社(RGF)のタイ拠点の立ち上げにジョイン。2015年2月より、約2年にわたって、現地での人材紹介の営業活動やマネジメントを行う。2017年3月、日本に帰国し、コンサルティングファームに入社。経営コンサルタントとして、多くの企業を支援している。
※プロフィール・取材内容は、2018年11時点のものです。







高校・大学は、ボート部一色。
JTBでの仕事は、新橋での飛び込み営業からスタート。


法政大学ボート部時代、多くの大会に出場

   高校時代から大学時代に掛けては、ボート一色の生活でした。大学は法政大学に進学して、4年間ボート部の寮生活です。埼玉県の戸田公園にその寮はあるのですが、朝の4時半から練習が始まります。大学で授業を受けて帰ってきても、また練習。夜10時に消灯して、また朝4時に起きる生活でした。大変でしたが、とにかく熱中していました。8人乗りの競技が主だったのですが、ある対抗戦でライバルの中央大学に数十年ぶりに勝てたのは、嬉しかったですね。今でも、ゴールの瞬間は記憶に鮮烈に残っています。

   就職活動では、スポーツの仕事をしたいと思い、ミズノやアシックスなどを中心に受けていました。そして、ある就活イベントに出展していたのが、入社することになるJTBです。採用担当の方と話している中で、スポーツ製品を売りたいのではなく、「スポーツが行われている“場”や”機会”をつくりたい」「そこに多くの人を呼んで楽しんでもらいたい」という動機に気づき、入社しました。オリンピックや国体やインターハイなど、主要なスポーツイベントには、JTBが絡んでいることが多いので、そういった仕事をやってみたいなと。


JTBの法人営業時代に、
ブルガリアのボート大会ツアーを企画

   2011年4月の入社当初は、新橋支店に配属になり、法人向けの新規営業を担当。ほとんど飛び込みで企業を訪問して、「JTBの吉田です。社員旅行はどうされていますか?」と聞いて回り、旅行をお客様に提案する仕事です。新橋エリアのほとんどのビルは回ったと思います。はじめは苦戦しましたが、徐々に契約も取れるようになりました。結果さえ残せれば、提案内容は任せる、何やってもいいよ、という自由奔放な支社でしたので、2年目からは、好きにやらせてもらいました。ブルガリアでボートの世界大会が開催される情報を見つけて、応援に行くツアーを企画したら、好評でした(笑)。当時は、刺激的な毎日でとても楽しかったですね。



このままで良いのか?とモヤモヤしていた、4年目の転機。
自分を試したい。タイでの立ち上げ業務で。

   転機になったのは4年目のこと。当時の自分は、やりたいこともやらせていただいていたし、職場の雰囲気も良く、メンバーにも恵まれ、評価も頂いていました。ただ、仕事がだんだんとルーチン化しているのは感じていました。経験を積んでスキルが上がり、できることが多くなるにつれ、逆に退屈してしまう。ブルガリアのツアーのように、未開の地を開拓しているワクワク感が、少しずつ薄れてきていたのです。

   ある日、知人の結婚式で、ボート部時代にコーチをしてくれていた人と会いました。おもむろにこう言われたんです。

「いま、俺はタイでリクルートの海外拠点の立ち上げに関わっているんだけど、一緒にやらないか」

   「ガツーン!」と頭の中で衝撃を受けたのを覚えています。営業としてこのままでいいのか、成長はあるのか。悩んでいた時期でしたので、「ああ、そういうキャリアもあるかもしれない」と興味を持ちました。海外へは旅行の添乗員として行ったことがありましたが、働こうと思ったことは一度もありません。まさに不意を突かれた感覚でした。

   そこからは悩みましたね。JTBでは、仕事も楽しいし、職場の雰囲気も自分に合っている。企業としてのブランドもあるし、待遇にも満足していました。会社を辞めなければいけない理由は、1つもありません。一方でタイに行くとしても、現地法人の公用語は英語で、自分は話すことができません。また、リクルートの事業である人材紹介業にも、縁もゆかりもない。現地での生活について情報収集したり、詳しい友人に話を聞いたり、親にも相談しましたが、結局は自分自身で腹をくくりました。

   自分を試せるのは今しかない。半年後にはこの立ち上げの機会はなくなる。自分を変えるためにも、ここはジャンプしてみるしかない、と。

   語学、仕事、生活。多くの不安を抱えながら、2015年2月、私はバンコクの地に降り立ちました。



「“リクルート?”どこの採用会社ですか?」
知名度ゼロからの拠点立ち上げ。



RGFタイのメンバーと

   当時のリクルートのタイ現地法人<RGF HR Agent Recruitment(Thailand)Co., Ltd.>は、10数名規模の小さなオフィスでした。日本人は私を含めて4名。その他は全て、現地の方を雇っていました。企業に転職希望者を紹介する人材紹介業を立ち上げようとしていて、顧客としては、日系企業の現地法人が多かったです。私のミッションは、JTBの新人時代と同じく、新規獲得の営業でした。

   まずは、顧客リストを見ながら、電話でコンタクトを取っていくのですが、その最初の一言を日本語で話すのか、英語で話すのか、それともタイ語を使ってみるのが良いのか、試行錯誤を重ねるところから始めました。リクルートは日本では有名な会社ですが、海外現地での認知度は無に等しかったです。「“リクルート”って、どこのリクルート会社だ?」って必ず聞かれます。英語では、「リクルート=人材採用」という意味ですので、「採用したい?どの人材会社だ?」と電話口で勘違いされるのです。その誤解を解くことから始めなければならない。市場を切り拓いていくのは大変ではありましたが、毎日が刺激的ですし、やればやるほど結果につながる。そして、会社が拡大しているのも、自分が成長しているのも実感できる。転職に求めていたことがすぐに実現できたので、非常に楽しかったですね。

   ただ、愚直にやりさえすれば、国や環境が違えど、成果はついてくるもの。次第に新規取引も獲得できるようになり、クライアント企業からも信頼をいただけるようになりました。クライアント企業の抱えている課題を分析したり、市場や競合の動きを調べたり、クイックなレスポンスを心がけて足しげく通うことで、個人の売上が伸びていったのです。会社の成長も実感することができ、仕事が楽しくなってきた時期に上司から別室に呼ばれました。「来月から、マネージャーやってくれ」。嬉しかったですね。入社してちょうど1年が経過していました。



業績不振、次々に退職する社員。。
日本でのやり方が通用しない。


   現地での勤務は1年を経過し、部下を持つリーダー職に昇格しました。そこからですね、とても苦しい日々が始まったのは。。。会社の業績も好調で、現地社員を採用して組織を拡大していました。ただ、日本人ではなく、タイ人が職場でマジョリティになってから、自分のチームも含めて、組織がうまく回らなくなりました。日本人の我々と彼らとは、仕事観が根本的に違っていたのに、それに気づかずに事業を拡大しようとしていた。これがまずかったのです。

   日本人は、会社の業績の達成のために、個の力で徹底的に頑張る気質なのですが、タイ人は、生活や家族を仕事より上位に位置づけていますし、職場全体の調和を非常に大切にします。「目標達成が全て」「一人ひとりが、何が何でもやりきる」というリクルート流のスタンスは、彼らの文化とは異なるのです。にもかかわらず、そのままメンバーに求めてしまっていました。

   この一本槍のマネジメントが、組織に大きな溝を生んでしまった。まずは日本人とタイ人の間で、コミュニケーションにおけるコンフリクトが増えてきました。その後は、お互いの会話も減っていき、コミュニケーション不全に陥り、優秀な社員が次々に退職し始めました。結果、顧客からの要望にも対応できなくなり、新規の営業も停止せざるを得ない状態に。売上は月ごとに減っていき、業績不振に陥りました。立ち上げて2年目の拠点が、はやくも存続の危機を迎えたのです。

   何とかしようと日本人のマネージャー・リーダー陣で毎日深夜まで議論を繰り返しました。ただ、私たち自身も、疲弊していました。退職者が続出する中で、膨れあがった業務をなんとかこなしている状態。「こんなに苦しい思いをして、タイでわざわざ事業をやる必要はあるのか。あえて私たちがこの地でやらなくても。」というネガティブな気持ちが芽生えたのも事実です。しかし、「苦しい状況でも頑張ってくれている社員もいるから、彼ら彼女らのためにも頑張ろう」と、組織が崩れるギリギリのタイミングで、何とか踏みとどまることができました。



業績よりも人のココロを大切に。
タイ人のメンバーからは、多くのことを学んだ。


   そこからは、とにかくメンバーとの対話を行いました。業績が落ちようが関係ない。顧客への訪問も止める。彼ら彼女らのことを知り、徹底的なコミュニケーションを取ることが、まずは大事だと。リーダー陣が、一人ひとりと個別面談を行ったり、お昼を一緒に食べにいったり、会議では彼らの意志をまずは確認したりと、徹底的な対話を行いました。また、会社の目標ありき、ではなく、本人の求める生き方を把握した上で、仕事をアサインしていく。会社よりも人、業績よりも人のココロ。この優先順位を徹底しました。すると、徐々にではありますが、意思疎通できる空気が戻ってきました。


RGFタイオフィスで達成の記念撮影

   私のチームメンバーに、新卒で当社に入社をしたタイ人女性と日本人男性がいました。タイ人女性のメンバーは、同年齢の日本人営業には絶対負けたくないという思いを持っており、私はその気持ちを受けて、彼女でしかできない仕事をできる限りお願いして、その成果をできる限り全体に共有しました。すると、彼女は持前の明るさと行動力を発揮し、どんどん新しい取り組みを始めたのです。人材紹介の営業活動では、現地企業のトップに会うことを通常は優先するのですが、彼女は現場で本当に困っているスタッフに会いに行き始めました。そうすることで、どんどん新しい案件が入ってくる。顧客企業の多くの社員からも信頼を得ることができ、お付き合いが一気に広がることもありました。ああ、こうやって人と会社は成長していくんだ、と、はじめて実感しましたね。

   もうひとつ、「特大コーヒー・キャンペーン」という施策があります。月ごとに営業成績の表彰を行っていたのですが、従来はお金をインセンティブとして個人に渡していました。ただ、あまり機能していなかったので、メンバーの皆に要望をヒアリング。「自分だけが表彰されても嬉しくない」「チーム全員でHappyを分かち合いたい」という意見が多かったので、導入されたのがこの施策です。大手外資系コーヒーチェーンの特大コーヒーを人数分買ってきて、みんなで喜び合いながら飲む。日本流で言えば、「カンパーイ!」という感じなのですが、これがとても盛り上がるのです。現地社員がイキイキと働き出して、改めて組織が回り始めるのを見ていると、やはり嬉しかったですね。。何とか、1年くらい掛けて、業績もV時回復。メンバーのみんなからは、本当に多くのことを学ばせてもらいました。


「特大コーヒー・キャンペーン」の賞品



2年を経て、日本へ帰国。
転職活動では、ほとんどの企業から「内定」。


   組織課題を解決して、一息ついたとき、ふと思ったのです。「いつまで海外で働くんだろう」。組織立ち上げと、その後の苦しかった時期を経て、日本人のスタッフも増えて徐々に成熟してきました。チームメンバーも育ちましたし、自分がいなくなっても組織は回るかもしれない。うっすらとそう考えていた中、一緒にタイへ来ていた妻が、休職期間が終わって日本に帰ることになりました。以前は、仕事のことばかり考えていたのですが、タイのメンバーと接している中で、家族や生活に対する考えが変わってきていたこともあり、自分も日本に帰ることを決断。濃密な2年間を過ごしたタイを後にしたのです。


奥さんとの休日の1コマ

   転職活動の軸は、経営に携わることのできる仕事に就くこと。営業マネジメントを行い、会社の業績を上げる中で、もう少し経営自体に深く関わってみたいと思ったからです。いざ、転職活動を始めてみて、私自身が一番驚いたのですが、海外でのリアルな経験を非常に高く評価していただけたことです。有難いことに、受けた企業からはほとんど内定を頂くことができました。海外でリアルに営業をしたり、事業を経験した人材がまだまだ少ないからだと思いますが、それにしても、ものすごいバリューを感じていましたね。

   そして、2017年3月、日系コンサルティングファームに入社しました。中堅中小企業へサービス提供をしている経営コンサルティングファームなのですが、人事領域にも力を入れていこうとしていたタイミング。顧客の経営全体を見る中で、前職でも関わった人事領域でのソリューションを幅広く提供できそうでしたので、この会社を選びました。コンサルティング業務自体は未経験でしたが、タイでの経験が役に立っています。「特大コーヒーが、強烈なインセンティブになる」とお伝えすると、喜んでいただける経営者も多いです(笑)。現地の「生」の情報は本には載っていないですからね。



アジアでは仕事のステージが上がる。
日本の「いち営業担当者」が「その地域の代表者」に。




   今振り返ってみると、単に海外に行ったこと以上に、そこで自分の「仕事のステージ」が上がったことが大きかったと思います。JTBでは4年目の「いち営業担当者」でしたが、リクルートのタイ支社では「その地域の代表者」として顧客企業と接することになりました。商談する相手も、「いち担当者」から「経営者や部長クラス」に上がる。経営者の方と休みの日に一緒に遊びに行くこともありました。ジェトロ(JETRO)の職員など、公的な方との接する機会が多く、視座が上がりましたね。また、社内においても、カオスな状態でメンバーのマネジメントを任せられ、事業の運営にも深く関与できましたので、経営者としての素養も身についたと感じています。この素養と経験が、現職で顧客企業の経営者と対峙する際には、非常に活きていますね。「リクルートだから」ではなく、同じような働き方ができる会社は、アジアにはたくさんあります。海外転職を考えている方は、ぜひ、チャレンジしてみることをオススメします。

   私自身、今後のキャリアとしては、いまの仕事を通じて、多くの顧客企業の経営を良くしていきたいのはもちろんですが、海外と日本をもっと近づけるような仕事をしてみたいですね。双方の交流を生むような仕掛けを、自分なりに生み出したいとも考えています。

   海外での転職を考えている方は、海外に行って戻ってきた人と、密に話してみるのがいいと思います。自分に近い世界の人だけではなくて、いろいろな人とコミュニケーションを取ることで、それぞれの「リアル」に触れて欲しいですね。やっぱり良いことや楽しいことばかりではないんですよ(笑)。私自身も、タイで周りの社員が辞めていったときは、「もう無理だ。帰ろう。。」と思ったこともありますが、そこで踏ん張れたことが今につながっています。そういうリアルに触れた上で、自分自身のキャリアを本気で考えてみることは、間違いなくプラスになるでしょう。





<インタビュー担当記者より>
自らの成長のために飛び込んだ、タイでの拠点立ち上げ業務。困難に直面したものの、真っすぐに向き合った吉田さんからは、人としての「器の大きさ」を感じることができました。日本での転職活動において、全ての面接で合格したのもうなずけます。大きな裁量のもとで事業を回す経験を、20代の若くして経験できたことは、経営コンサルタントとしてのキャリアにおいて大きなプラスになることでしょう。

まずは、チャレンジすることが大事なのではないでしょうか。語学に関しても、「タイの人たちは、語学ができない人に対しても寛容なので、必死に伝えようとすれば、意図をくみ取ってくれました。そこまで問題にはなりませんでした」とのことでした。


●インタビュー・執筆担当:佐藤タカトシ
キャリアや採用に関するWebでの連載多数。2001年4月、リクルートコミュニケーションズ入社。11年間に渡り、大手自動車メーカー、大手素材メーカー、インターネット関連企業、流通・小売企業などの採用コミュニケーションを支援。2012年7月、DeNAに転職。採用チームに所属し、採用ブランディングをメインミッションとして活動。 2015年7月、core wordsを設立。



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